宗教と霊
宗教について
私のところにも、さまざまな宗教の人達が来られるが、ここではひとつひとつの宗教について論じるつもりはない。個人的は質問に関しては別に答えさせて戴いている。
宗教に入会した後も悩み迷い続けている人がかなりいるが、どんなにあなたが信じていようとも、そこで愛と智恵をしっかり学ぶことができなければ宗教とはいえない。
その宗教に入会しないと、信者にならないと救われない、守られない、解決しないと信じ込んで、人にすすめて入会を迫る。あなたにとって真理と感じていても他者にとってそうではなかったりするし、人の感じ方が同じ方向に同じようにとらえる訳ではない。そういう気持ちですすめるのは、ひとつの執着心であり愛とはいえない。
人の言葉に惑わされるのは良くないが、自分が狂信的、盲目的になっている時でも一応人の意見に耳を傾けることは大事なことだ。あなたに見えていない真理の側面が、他の人には見えていることもある。自分が信じることだけを分からせようと必死になるのは本当の思いやりではない。ただの押しつけである。相手の心、気持ち、人格を尊重しながら、その人の為になることをしてあげることだ。相手が何を一番望んでいるかも分からないのに自分が良いと思っているからという理由で説き伏せてはいけない。それがすぎると逆に罪を作ることになる。あなたのカルマを増やすことになるからだ。
1つの宗教の教示や、そこの神だけにすがらなくても人間には自分で解決する力は与えられているのだという原点を忘れてはならないと思う。信仰心は、とても大切だが、すがりきるような形で、自分の本来の人としての力をないものとしてとらえてはいけない。すべての人間は神の子なのだ。人を助け、人の事を我が事のように思い行動する人は、すべて救世主ともいえるのだ。自分だけのことを救世主と言う人は、どれだけ沢山の人を分けへだてなく私情を狭まず愛し、人の為になること日々しているか自分に問うと共に、そういうことは人が判断することであり、神に見込まれているような人はそういう事は決して言わない。大言壮語を言う前にイエス・キリストのように相手を見つめただけで、病を治すことが自分にできるのか考えてみるといい。
本物はどの世界の人であれ、謙虚な心をもっている。ましてや自分の力を誇示したりはしない。肩書き的に偉い人であれ、一般の人であれ自分の苦しみよりも人の苦しみを優先して考えられるようになるのは一つの大きな強さだ。本当の思いやりと強さは表裏一体なのだ。何かにすがりきっている間は弱いままなので、そこに魔が入る。ご利益信仰は、本当の信仰ではないし、自分中心ということなので、自分を基準にしか考えていないそれなりの結果が生じる。どの宗教を信じようとそれは個人の自由だし勝手だが、霊的にも人格的にも成長でき失敗や不幸から沢山の事を学べる心になることが何より大切な事なのだ。
教祖様や上の方々の事を自分より偉いと思う必要もない。その人達の私生活のすべてを、あなた方が把握している訳でなないだろう。もしかして魂的にあなたの方が上かもしれないのだ。どういう動機を持って行動しているかは、普通の人に見抜けるものではないのだから。勘違いしている人が多いが、その宗教に奉仕し続けたからといって幸せにしてもらえる保障はない。幸せは自分の力でつかむものだ。妙な安心感だけが、将来の幸せにつながるとはいいきれない。
お経や祝詞をあげていたら必然的に幸せになって問題が解決されるのではない事を考えてみるといい。1万回唱えて解決できるならみんな幸せになっているはずだ。お経や祝詞で変化がおこるのも、その人の心に応じてなのだから、その宗教に入会し教示通りしていて幸せになれるなら誰も苦労しない。偉い教祖様、大神様と呼ばれる人だろうが、自分で救世主と言う人だろうが、まだ学ばなければならない、沢山の課題や宿題、カルマが残っているからこそ地上に人間として肉体をもって生まれてきているのだ(人の犠牲になる魂で生まれてきた人は別として)要するに完成されてない、完璧でないからこそ人間世界、この物質界にいるのだということなのだから。そういう意味で自己を犠牲にしてまで、人を救っている人はみんな救世主といえるのだ。そういう生き方をしている人達ひとりひとりが救世主ともいえるのだ。私しかこの世も人も救えないというのは次元が低すぎるうぬぼれであり、ただの思い上がりだ。強調と調和という意味をはき違えない事だ
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